国産車の歴史をさまざまな視点から見ていく記事の、大衆車シリーズその1は、1950年代の通商産業省(現在の経済産業省)が考案した「国民車育成要綱案」が元となって生まれた、事実上日本初となる3台の大衆車をご紹介します。
世界初の「大衆車」T型フォードが残したもの
その歴史の初期において、世界中のどこであろうと「富裕層の持ち物」だった自動車が初めて大衆でも買える存在となったのは、1908年に生まれたT型フォードことフォード モデルTが初めてでした。
それ以前にもヨーロッパなどで安価なサイクルカーなどのマイクロカーは存在したものの、自動車としては非常に簡便で実用性は低く、趣味の移動などではともかく、例えば買い物に出かけるのに使うような用途には向いていなかったのです。
それを変えたのがT型フォードで、1927年までの19年間で1,500万台以上を生産、史上2番目の生産台数を記録しました(史上最多生産は後述)。
その特徴はベルトコンベア式の流れ作業による効率的な大量生産により、同クラス他車よりも圧倒的な低価格を実現した事がまずひとつ。
さらに、全米各地に販売拠点とともにサービス拠点を多数設けて整備や修理を容易にした事。
そして、部品の規格化により職人の手作業による調整を不要とし、同じ部品で組めば全て同じT型フォードになるという、今では当たり前ですが当時としては画期的な事を実現したのです。
このT型フォードによって確立した「大衆車」は、以後全ての大衆車が以下の項目を基本として作られる事になりました。
1.一般的な所得層が十分購入できる価格帯
2.一般的な道路状況で日常利用か可能な走行性能
3.一般的な所得層でも燃費や整備など維持コストに無理がない事。
4.一般的な構成の家族が乗車できる事。
「国民車」として生まれ、世界一の大衆車に成長したVWタイプ1「ビートル」
戦前のナチスドイツにおいてヒトラー総統の厳命によりフェルディナント・ポルシェが開発した「kdf」は、T型フォードのように1企業による開発ではなく「国民車」という国家プロジェクトではありましたが、戦後にフォルクスワーゲン社がタイプ1、通称「ビートル」として大量生産し、ドイツ本国をはじめ世界各国で58年にわたり2,100万台が生産されました。
「世界最多生産を誇る大衆車」とは、ビートルの事だったのです。
元々、戦前のドイツ国民車計画でしたが、既に整備が始まっていたアウトバーンから、舗装されていない田舎の悪路までを家族を乗せて十分な走行性能を持ち、かつ安価で整備も容易という大衆車としての要件も十分に満たしており、北米をはじめ輸出も絶好調で日本でもよく見かけ、さらには世界中に工場が作られる事で、現在のフォルクスワーゲン社の礎となったのです。
日本で1952年から輸入が始まった当初は高品質のドイツ工業製品として高性能車扱いで、信頼性も初期の国産車に比較して段違いに高かったため、大衆車より富裕層やレースに出る人の乗り物ではありましたが、いずれ日本の大衆車もビートルを追いかけ追い越すようにして発展します。
戦後長らく「個人で自動車など持てない時代だった」日本
1945年の太平洋戦争敗戦に至る大空襲で工業が壊滅的な打撃を受け、戦後のGHQによる占領、財閥解体などで最貧国に転落した日本でしたが、1950年に始まった朝鮮戦争を契機として日本の再工業化を阻止するような方針は転換され、1952年に占領が終了して独立を回復すると、国産車も少しずつ登場するようになりました。
とはいえ、多くの国民にとって自動車を買うなど思いもよらない高値の華だった事は事実で、この頃作られたクルマは富裕層向け、あるいはタクシー需要がほとんどです。
ライセンス生産されていた日野ルノー4CVや日産オースチンA50などは元より、オリジナル国産車としてデビューした初代トヨタ クラウンや日産 セドリック、いすゞベレルなどはほとんどがタクシー需要で、仮に個人が手に入れるとしても「タク上がり」でボロボロの中古車くらいでした。
その頃の「安いクルマ」と言えばフライングフェザーやオートサンダルなどごく初期の軽自動車や軽オート三輪くらいでしたが、それでも個人の移動用としては依然として高すぎる上に機械的信頼性も走行性能も低く、サービス網など無い零細企業の製品が多く、部品の規格化も遅れていたため整備は容易ではなく、整備工場の職人技が欠かせなかったのです。
それでは全く大衆車として成立していないクルマばかりなのが、当時の日本のモータリゼーションの現状でした。
通産省の「国民車育成要綱案」が話題となり、大衆車の火付け役となった
しかし、いつまでもそのままでは自動車産業が育たないため、大量生産・販売可能な大衆車を作るべく国が音頭を取る事となり、1955年に通産省で構想されたのが「国民車構想」こと「国民者育成要綱案」です。
一定の要件を満たしていれば、その大衆車の生産と販売を国が支援するというもので、今で言うとエコカー減税のような振興策なわけですが、その要件とは以下のようなものでした。
1.4名(うち2名は子供でも可)を乗せて最高速度100km/hを発揮可能
2.60km/h定速走行で30km/Lの低燃費
3.構造が複雑でなく、月産3,000台が可能
4.工場からの出荷時原価15万円、販売価格25万円
5.排気量は350~500cc
6.大きな修理を要する事無く10万km走行できる
7.1958年秋には生産開始
要するに戦前のT型フォードやドイツの国民車(後のビートル)を参考にしたような国産車を作ろうというものです。
結果的に「国民車育成要綱案」はそのまま実行される事は無く、ほぼそれに沿って開発されたクルマもあまりありませんでしたが、報道で「自分たちでも買えるクルマの登場」を予感した一般大衆によってその後に登場する大衆車の購買意欲に結びついた、と言えるでしょう。
国産大衆車シリーズ、今回はそのプロローグとして国産大衆車の前提となる背景から説明しました。
結局「国民車育成要綱案」が国産車開発に与えた影響はあまりありませんでしたが、国産大衆車への期待を煽った事で、その後の販売面に大きく影響を与える事となったのです。
次回はいよいよ、日本初の大衆車として登場したスバル360、三菱500、トヨタ パブリカなどを紹介します。