現代ライトウェイトスポーツの始祖 初代「ロータス・エラン」がもたらした皮肉
ライトウェイトスポーツ復権の陰で
1989年にユーノス・ロードスターが発売された時、自動車の歴史に新たな1ページが刻まれました。
それまで「時代遅れな過去の遺物」として忘れ去られていたライトウェイト・オープンスポーツが爆発的に大ヒットし、世界中の各社が同じジャンルのスポーツカーを投入する騒ぎになったのです。
しかしその頃、ロードスターとほぼ同時にデビューした一台の車には、皮肉な運命が・・・
その名は「エラン」。
「ロータス・エラン」。
そう、ユーノス・ロードスターが開発されるにあたって、その再来を目指した一台のライトウェイトオープンスポーツカーの、二代目モデルでした。
ロードスターが特にパワフルでもない代わりに軽快に吹け上がるファミリア用1600ccエンジンを縦置きに搭載し、古典的なFRレイアウトでデビューしたのとは対照的に、二代目「エラン」はパワフルな1600ccターボエンジン(NAもありましたが)を横置きに搭載した、FFだったのです。
しかもそのエンジンが日本のいすゞ製。
おかげで「エランなのにFRじゃない」「いすゞエラン」等と心無い陰口を叩かれてしまい、最後は韓国のキアに生産設備が売却され、キア・ビガートと名前まで変わってしまったのでありました。
完成度が高かった初代ロータス・エラン
後にケータハムに生産権が移って今も健在な「7」などを生んだイギリスのスポーツカーメーカー、ロータスがGTカー「エリート」の後継として1962年に送り出したオープンスポーツが初代「エラン」。
DOHC1500ccエンジン(後に1600cc)を縦置きに搭載したFRのオープンスポーツで、ヘッドライトはリトラクブル式。
後のロードスターが当初「エランのパクリじゃないか」と嫌味を言われるのも仕方ないほど、エランは先を行っていた…いや、ロードスターが先祖帰りしたくなるほど完成されたパッケージだったのです。
ただオープンスポーツというだけでなく、初代エランはレースでも活躍しました。
日本でも日本グランプリなどビッグレースが始まったばかりの時期で、並み居る強豪外車に混じって初代エランもレースに参戦。
浮谷東次郎のドライブするエランのレース仕様「ロータス26R」が船橋CCCレースで優勝するなど、初期の日本人レースファンにも馴染みのある車だったのです。
初代エランは途中で固定ルーフモデル(フィクストヘッドクーペ)が追加されてオープンモデルは「ドロップヘッドクーペ」と呼ばれるようになり(コアなファンだと「オープンカー」と呼ばないらしい)、パワーウィンドーがついたり4人乗り(2+2)モデルが出たりと小変更が加えられながらシリーズ1からシリーズ4までが1975年までに13年に渡り生産されました。
二代目エランにまつわる・・・
その14年後に登場した二代目が、「まんま初代エランノキープコンセプト」と言えるロードスターに真正面から粉砕されたのは皮肉としか言いようがないのですが、二代目エランはFFスポーツとしては良好なハンドリングで、いい車だったそうです。
そうそう、二代目エランにエンジンを供給したいすゞは、その縁でロータスにジェミニやビックホーンのセッティングをしてもらった「ハンドリング・バイ・ロータス」モデルをリリースして市場からは好評を得ますが、そのいすゞまでも数年後には乗用車から撤退してもらうというオチまであったのでした。