スバルは米国で絶好調!〜原点、中島飛行機からの挑戦〜

スバルの北米での勢いが止まりません。
2020年度に北米での販売台数60万台を目標にしていたのが、2015年度にも達成してしまいそうだというのです。

北米だけではなく欧州でも人気のスバル車の中で、日本国内での使用に向いたモデルが実質的に「レヴォーグ」と、他社から供給を受ける「トレジア」(トヨタ・ラクティス)、それに軽自動車(ダイハツ製)だけになってしまい、日本市場では販売減が続いていますが、海外向けは作っても作っても足りず、ディーラーには展示車すらろくに無い状態が続いています。

皆さんは、その「スバル」こと富士重工が、かつては三菱などと並び、日本屈指の軍需産業だった事をご存知でしょうか?

中島知久平

画像引用  sites.google.com

1917年に海軍出身の中島知久平が創設した「中島飛行機」が富士重工のルーツです。

同じく中島飛行機をルーツに持つ会社に「スカイライン」や「グロリア」を産んだプリンス自動車がありましたが、こちらは1966年に日産自動車と合併し、今は「スカイライン」や「クリッパー」といった車名に名残を残すのみです。

中島飛行機は三菱のように、飛行機だけでなく軍艦の建造や戦車の生産など、幅広い軍需を受け持つ総合軍需産業ではありませんでしたが、航空機メーカーとしては日本最大、世界でも有数の大メーカーでした。

創設した年には早くもフランスのニューポール社が開発した戦闘機の生産権を得て、生産を開始(ライセンス生産と言われます)。
それが陸軍向けの「甲式三型戦闘機」で、以後三菱や川崎、川西といったライバルメーカーとしのぎを削りながら、次々と新型機を送り出していきます。

最初こそ海外で開発した機体をそのまま、あるいは独自に改良して生産していましたが、やがて機体については完全国内開発のメドがつきます。

中島初の近代戦闘機、九七式戦闘機と加藤隼戦闘隊の一式戦闘機「隼」

画像引用 commons.wikimedia.org

その象徴的存在が、陸軍の「九七式戦闘機」です。

一世代前の旧式な複葉(二枚羽)戦闘機とは全く異なるスマートな機体で、空中戦の一般的なイメージであるドッグファイト(格闘戦)では九七式に勝る戦闘機は無いとまで言われます。

1939年に中国東北部、当時の「満州国」と「ソヴィエト連邦」の国境で戦われた「ノモンハン事変」という国境紛争で中島九七式戦闘機はソ連軍機と激しく戦い、紛争には勝利できなかったものの、空の戦いではソ連空軍に対して優勢を続けました。

そして中島飛行機の名声を一気に高めたのが、その九七式をベースに大幅に近代化した一式戦闘機です。

画像引用 arawasi-wildeagles.blogspot.jp

海軍のゼロ戦が公式には「新型戦闘機」として戦争末期まで一般には公開されない軍事機密扱いだったのに対し(実際には機密は守られず、皆「ゼロ戦」を知っていたようですが)、一式戦闘機は加藤建夫中佐率いる陸軍飛行第64戦隊の活躍が「加藤隼戦闘隊」として知られるようになり(1944年には映画化)、零戦よりも国民一般に広く知られる存在となったのでした。

そのため、今でも中島飛行機の戦闘機といえば、この「隼」と、さらに拡大発展させた四式戦闘機「疾風」を思い浮かべる人が多いのです。

一躍有名な「隼」を送り出した中島飛行機ですが、その後も軍用機の生産拡大を続けます。

自社開発では「隼」や「疾風」といった陸軍戦闘機や、海軍夜間戦闘機「月光」、海軍の空母に搭載されて真珠湾攻撃などで活躍した「九七式艦上攻撃機」、その後継機の「天山」を送り出す一方で、実は大きな役割を果たしたのが「ゼロ戦」の生産です。

ゼロ戦こと零式艦上戦闘機はライバルメーカーの三菱が開発しましたが、大規模かつ効率的な航空機生産工場を持っていた中島飛行機にも生産が命じられ、結局途中からは三菱の倍くらいを中島が生産しています。

誉れ高く

画像引用 puranoa6750057.blog.fc2.com

そのゼロ戦をはじめ、他社製の飛行機でも中島製のエンジンを搭載する事例は多く、生産能力も含め、日本最大の航空機用エンジンメーカーでもありました。

その集大成と言えるのが欧米のエンジンよりはるかに小型で小排気量ながら、ハイパワーエンジンの基準ともされる2000馬力級の出力を達成した「ハ45」エンジン(海軍名「誉[ほまれ]」)です。

ごく最近までこのエンジンの評価と言えば「生産も整備も難しく、粗悪な燃料ではマトモに動かない技術が暴走した産物」と最悪に近いものでしたが、近年になって様々な資料から再研究が進んだ結果、実際には温存されていた良質の(と言って悪ければ普通の)燃料やオイルの備蓄はそれなりに存在し、適切な時期での部品の交換などマニュアルの充実が進むに従い、通説となっていた悪評そのものが実際にはほとんど存在しなかったと、再評価されつつあります。
(戦争はエンジンの性能だけで行うものでは無いのですが、ハ45=誉を悪者扱いする通説ができた理由が何かあるのでしょう)

さてその中島飛行機が最後に目指したのは、アメリカ本土でした。

1942年に中島知久平が中心になり「必勝防空計画」を立案。
その内容はアメリカ本土への空襲。そしてその空襲後にそのままドイツ、またはその占領地まで飛行し、現地で補給を済ませて、再度アメリカへ空襲を仕掛けるという壮大なものでした。

その計画の肝となる機体が、巨大な超重爆撃機「富嶽」(ふがく)です。

機体スケールもエンジンの出力も空前絶後、当時の日本の技術力や生産力ではとてもモノにできるシロモノでは無かったのですが、それでも中島飛行機はこの「富嶽」に搭載するエンジン開発に突き進み、「ハ50」と呼ばれる、計画出力3100馬力の巨大なエンジンを作りました。

しかし「あまりにも無謀な計画に資源を浪費するべきではない」という、もっともな意見が通って、1944年半ばで「富嶽」はあえなく開発中止となったのでした。

そして1945年8月に終戦し、中島飛行機のアメリカ本土への挑戦は幕を閉じました。

1945年4月から終戦まで「第一軍需工廠」と名を変えて事実上国有化され、ほぼ軍用機専業メーカーだった中島飛行機でしたが、終戦と共に会社としては復活して「富士産業」と名を変えます。

その後はナベやカマを作るところから事業をやり直し、「ラビット」の名で一時代を作るスクーターや、バスのボディ架装など民需工場となりましたが、1950年、各占領軍によって工場ごとに分社化されて解体。

ところがその頃始まった朝鮮戦争の影響で連合軍の占領政策が一変し、1955年にはバラバラになっていた旧中島飛行機のうち6社が集まる形で、現在の富士重工業が誕生します。

それから60年、今や富士重工業「スバル」の車は北米で絶好調となりました。

かつてアメリカ本土まで届かなかった中島飛行機の末裔であるスバルの車が、今後さらにアメリカでの挑戦をどうやってクリアしていくのか、今後も目が離せません。

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