日本車が飛躍的な進歩を遂げたと言われる60’s
今回は日野自動車が誇る、今でも私たちを魅了してやまない名車をご紹介!
日野自動車〜 日野ルノー4CVから“貴婦人”コンテッサ、そしてヒノ・サムライまで〜
自動車業界変革、60年代の日本車
今はトラックなど産業用大型自動車メーカーである日野自動車。
パリ・ダカール・ラリーのカミオン部門に毎年「レンジャー」ベースのレーシングトラックを投入するほどモータースポーツに熱心なことでも知られています。
その日野自動車がかつて乗用車メーカーだった頃もまた、レースに熱心でした。
かつての和製ルノー「日野自動車」
日野コンテッサ900スプリント
その源流は「東京瓦斯電機工業」(通称「瓦斯電」「ガス電」)で、戦前から軍用・官用のトラックやバスなどを作っていた自動車部門が1942年に「日野重工」として独立したのが始まりです。
太平洋戦争後の1946年に「日野自動車」、1959年には「日野自動車工業」と改称し、そのさなかに1953年にはフランスのルノーと提携、「4CV」(キャトルシヴォ)の生産を開始します。
「日野ルノー4CV」は戦後初期のタクシー業界で大活躍し、「神風タクシー」の代名詞ともなりました。
1961年には日野オリジナルの乗用車「コンテッサ」を発売し、1964年には二代目「コンテッサ」にモデルチェンジ、さらにレースにも盛んに出場し、レーシングマシン「ヒノ・サムライ」やレース専用のDOHCエンジンを開発するなど順調に発展するかと思われたものの、1966年にトヨタ自動車との業務提携により、競合回避のため翌年には乗用車生産から撤退しました。
「4CV」以来、一貫して独特のリアエンジン自動車を開発し続けており、原型であるルノー車における「アルピーヌ」のような、流麗なデザインのコンセプトカー「コンテッサ900スプリント」などが実現した上で現在でも存続していれば、マニアックな自動車メーカーとして独特なポジションを占められる可能性があった事は確実で非常に残念です。
「神風タクシー」日野ルノー4CV
1946年にフランスのルノーが開発した小型乗用車「4CV」は、フォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)の影響を受け、「フランス風ビートル」とでも呼べる車でした。
もっとも、「ビートル」の開発者であるフェルディナンド・ポルシェ博士には開発の最終段階で感想を求めた程度であり、空冷水平対向4気筒エンジンではなく水冷直列4気筒エンジン、2ドアではなく4ドアなど相違点も数多くある、ルノーオリジナルの車と言えます。
1953年に日野との提携により、「日野ルノー4CV」として日本での生産が決定しました。
当時は三菱が米ウイリス社の乗用車「ヘンリーJ」を1950年に生産開始したのを皮切りに、日産と英オースチン社の提携による「日産・オースチンA40サマーセット」(1952年生産開始)、いすゞと英ルーツ社の提携による「いすゞ・ヒルマンミンクス」(1953年生産開始)と、海外の自動車メーカーとの提携が始まりという自動車メーカーが多く、トヨタやダイハツ、スズキ、マツダ、プリンスなど独自開発のメーカーより先んじていました。
「日野ルノー4CV」も先行した利点を生かし、また小型なわりに4ドアでタクシー向けだった事からタクシーで大量に使用されています。
愛嬌ある姿から「亀の子タクシー」と親しまれる一方、当時まだ舗装が進んでいなかった日本での悪路に対応するため、エンジンや足回りは本国仕様より強化され、運転手が遠慮無く飛ばした事から「神風タクシー」とも言われました。
リアエンジンの「貴婦人」コンテッサ
コンテッサ1300
「4CV」の生産を1963年まで続ける一方で、1961年には後継車としてオリジナルモデル「コンテッサ900」をデビューさせました。
4CVの750ccエンジンに対して900ccと一回り大きいエンジンを積んだコンテッサは外観こそ違えど4CVを踏襲したリアエンジン・リア駆動のRRレイアウトであり、その実績から引き続きタクシー業界で多用されます。
そして1964年には「コンテッサ1300」にモデルチェンジしますが、流麗で伸びやかなスタイリングは当時の日本車の中で群を抜いて美しく、「貴婦人」と呼ばれていました。
初期のレースでも「コンテッサ」は活躍し、ルノーとの縁もあってアルピーヌに開発を依頼したDOHCエンジン「YE28」を搭載したレース用マシンもありました。
今でもクラシックカーイベントなどに赴くため自走している「コンテッサ1300」を時々見かけますが、一見して日本車とは思えないそのスタイリング(イタリアのデザイナー、ミケロッティの作)に、目を見張ります。
幻のレーシングカー「サムライ」
ヒノ・サムライ
日野自動車は1967年で乗用車生産から撤退し、統合先の日産の一部門として自動車開発を続けたプリンスや、トヨタの軽自動車/コンパクトカー部門として残ったダイハツとは違い、乗用車開発をやめてしまいました。
同時にレースからも撤退しますが、その末期には興味深いレーシングカーを製作しています。
それが1967年の第4回日本グランプリに出走するはずだった「ヒノ・サムライ」です。
アメリカのシェルビー(「コブラ」などマッスルカーで有名)でデザイナーをしていたピート・ブロックがデザインした流線型でいかにも速そうなボディに、日野のレーシングDOHCエンジン「YE28」を搭載したマシンは、チーム監督に大俳優の三船敏郎が就任した事もあって、各メディアから大変な注目を集めていたのです。
しかし、予選前の練習走行でエンジンを破損し、急遽トラック「ブリスカ」のエンジンに載せ替えて、何とか形だけでも予選出場しようとしましたが、換装したエンジンのオイルパンが原因で最低地上高をクリアできず、車検に落ちてしまうという大失態を演じてしまいました。
もっとも、仮にレースへの参加が許されたとしても、ライバルのはずのダイハツのレーシングカー「P-5」は予選落ちで決勝を走れず、同じ1300ccエンジンとはいえトラック用のエンジンを積んだ「サムライ」がそれより速く走れる道理も無かったので、結局は予選落ちしたのではないかと言われています。
その後の「サムライ」はアメリカに戻り、改良を重ねながら90年代まで倉庫に眠ったりマイナーレースに出たりを繰り返したようですが、現存するかは定かではありません。
日野のレーシング・スピリッツは「サムライ」を最後に終わりましたが、ラリーでの「レンジャー」の活躍に、その名残が感じられます。
日野自動車にこのような歴史があったことを、ご存知でしたでしょうか?
美しい日本の車。
また、市場で見てみたいものです。