国産大衆車史その12は、1970年代最初の大衆車は日産 チェリーです。#国産車 #大衆車 #日産
パブリカには対抗しなかった日産
1961年にトヨタが初代パブリカを発売、この700ccの大衆車を始まりとして、各メーカーから800~1,000ccクラスの小型大衆車が発売されていきました。
しかし、このクラスの波に乗らないまま1960年代を生き残ったのが日産です。
1950年代から販売していたブルーバードや1966年に発売したサニーなどはいずれも1,000~1,400ccクラス、ブルーバードはさらにその上の1,600ccクラスまでカバーしていましたが、1,000cc以下のクラスには参入しなかったのです。
その一方で、1960年代には「コニー」シリーズの軽自動車を販売していた愛知機械工業を傘下に収め、グロリアやスカイラインなどを販売していたプリンスを吸収合併しています。
その過程で生じた、いわば両者の「遺産」を活用する形で、1台の大衆車が世に出る事になりました。
コニー店とプリンスの大衆車
日産の傘下となった愛知機械工業は、コニー360など水平対向2気筒エンジンを搭載した個性的な軽ライトバン / 軽トラックのメーカーでした。
コニー車の販売会社として全国各地に「コニー店」がありましたが、愛知機械工業を日産車やその部品を作る下請け工場として傘下に収めると、そのコニー店では売るクルマが無くなってしまいます。
そこで日産は「コニー店」を日産車の新たな販売拠点として日産ディーラーに転換する事にしました。
そして、こちらは完全に日産に吸収合併されて消滅したプリンス。
こちらはスカイラインより小型で、サニーやカローラクラスよりもさらに1回り小さい、トヨタ パブリカに相当する1,000ccクラスの大衆車を開発していました。
日産は合併したプリンスが開発していたクルマやエンジンをそのまま日産ブランドで存続させる事が多く、その大衆車の開発も旧プリンスの開発陣によって続行されていたのです。
そして、その大衆車を日産ディーラーに転換するコニー店の新しい目玉に据えます。
それが日産初のFF(フロントエンジン・前輪駆動)車「チェリー」であり、それを販売する日産チェリー店でした。
大衆車初の横置き直4エンジン車、チェリー
完成した大衆車チェリーは、サニーなどに使われた1,000~1,200ccの直列4気筒エンジンを横置きに搭載、その下にミッションを同じく横置きで2階建て構造とした、ミニと同じイシゴニス方式のFF車でした。
現在のエンジンとミッションを直列に横置きしたジアコーザ式と違い、幅の狭いクルマでも長いエンジンを積めるのが特徴で、初期のFF車には時々用いられた方式です。
それに足回りはフロントがストラット、リアがトレーリングアーム式の四輪独立懸架であり、同クラスのパブリカや、1クラス上のサニーがリアはリーフリジッドであった事を考えると贅沢な作りで、いかにも技術先行でコストをかける(それが経営悪化を招きましたが)プリンスらしい作りでした。
ホットモデルのX-1Rで歴史に名を残す
当時FF車と言えば軽自動車以外ではくらいで、それも水平対向4気筒エンジン縦置きのスバルFF-1 1300Gや、強制空冷エンジンのホンダ 1300など、かなり独特の構造を持つクルマばかりでした。
つまり、クルマと言えば後輪駆動が当たり前という時代、FF車は「変なクルマ」という扱いでもあった中で、日産 チェリーはかなり異質な存在だったのです。
さらにホンダ 1300で「曲がらなくて転倒しやすく、危険な直線番長」というイメージまであった頃ですから、保守的な日産ではまず開発できなかったクルマでしょう。
チェリーにはセダンやライトバンのほかにスタイリッシュな2ドアクーペもあり、オーバーフェンダーを装着してツインキャブのA12エンジンを搭載したチェリー X-1Rが現在でも有名です。
悪路でも直進安定性に優れる事からダートトライアルやラリーでも活躍、スバル車と共に「悪路で強いFF車」のイメージを確立した功績は大きいでしょう。
技術的にかなり尖った大衆車だったチェリーですが、2代8年にわたって販売された後、8代目にはパルサーにバトンタッチ、チェリー店もパルサー店となりました。
その後も商用車のチェリーバネットに名前が残っていましたが、1985年に単なる「バネット」に変更されて車名としても消滅、現在でもチェリーの名を残すのは、岩手県で日産レッドステージ店を経営する日産チェリー岩手販売株式会社のみです。
次回はカローラのクーペモデルとして生まれ、2代目以降は正式に兄弟車となったトヨタ スプリンター、「陽のカローラ・陰のスプリンター」をご紹介します。