「スーパーソニックライン」510ブルの誕生
1967年8月に登場したダットサン510こと日産 ブルーバードの3代目は、その後の大衆車史に大きな影響を与える存在として注目されるべきでしょう。
初代から始まるトヨタ コロナとの販売競争「BC競争」で当初リードしていたブルーバードが、2代目41で採用された尻下がりのピニンファリーナ・デザインが世間に大不評で失敗作となり、その一方で2代目以降巻き返したコロナに逆転を許します。
それ以降、つばぜり合いを繰り返しながらも次第にコロナとブルーバードの差は離れていき、最終的にコロナの圧勝で終わるわけですが、その途中でブルーバードはスポーツ路線へと大きく舵を切ります。
その大きな転換点となったのが、3代目の510型でした。
2代目でも1,600ccの「SSS」(スーパースポーツセダン)は存在し、サファリラリーなど国際的ラリーに出場してクラス優勝を遂げるところまでは進んでいたのですが、その路線をさらに一歩進めた形です。
そもそもノーマルのブルーバードそのものは、前作410とは打って変わって直線的な「スーパーソニックライン」と呼ばれるシャープなデザインに更新、コロナと比べるとスポーティになったのですが、これはある意味で、コロナのように中性的で誰でも乗れるクルマではなく、ある程度スポーティさを求めるユーザーをターゲットへと、転換しています。
1,600ccのSSSも最初から設定され、その後多少の紆余屈折は経つつも、「ラリーのブル」として、代を重ねるたびに、どれだけスポーティかをチェックされることになるのでした。
サファリラリー、栄光の5,000km
その510型のSSSですが、新開発のSOHCエンジン、L型の4気筒版L16を搭載し、日産初の四輪独立懸架を採用。
それまでの日本車では道路事情の悪さもあって、舗装路で格段に乗り心地やスポーティな走りに繋がる四輪独立懸架よりとにかく頑丈で壊れないリジッドサスが好まれていました。
しかし、東京オリンピックや名神高速道路の開通をきっかけとした道路事情の好転や、ようやくサスペンション設計に慣れてきたこと、トラックベースのシャシーに架装されたボディからモノコックボディへの転換によって、実用的な四輪独立懸架の採用に目処がついたのです。
その走行性能を試すうってつけの場面として、ダットサン210の頃から国際ラリーを活用していた日産は、海外の有名なラリーへと次々に参戦。
そして510ブルーバードの名声を不動のものとしたのが、1970年のサファリラリーでした。
このラリーでブルーバードは総合優勝、チーム優勝の2冠を達成し、石原プロによる「映画栄光の5,000km」で紹介(撮影は1969年のサファリラリー)されたこともあって、「ラリーのブル」は一躍有名になったのです。
それ以前も海外のラリーや国内レースでの活躍が大衆車の宣伝に使われることは多かったのですが、過酷な長距離メジャーラリーでの総合優勝は大快挙で、以降、大衆車の宣伝に「頑丈で速いことを証明するのにうってつけ」ということで、ラリーが活用されていきます。
その最初の成功例として、510ブルーバードの名は永遠に記録されているのです。
2代目ファミリアはロータリーで一躍高性能大衆車へ
510ブルーバードと同じ1967年、11月には2代目ファミリアがデビューしました。
初代も秀作としてはかなりスタイリッシュでしたが、2代目はさらに洗練されてカローラやサニーに負けない近代的な丸みを帯びたデザインになります。
エンジンも1,000ccに1本化され、カローラには及ばないもののサニーに匹敵するクルマとして定着し、大衆車としての足場を固めたのでした。
しかし、2代目ファミリア最大の功績は、ロータリーエンジンを搭載したことです。
すでにマツダ初のロータリーエンジン車、コスモスポーツは同年5月にデビューしており、超高額スポーツながらマツダのイメージリーダーとなっていました。
しかし、そのままではロータリーは「高値の花のスポーツカー用特殊エンジン」で終わってしまうため、当然マツダはこの新世代エンジンの大衆車への応用を実行します。
選ばれたのは、というより当時マツダ唯一の大衆車だったファミリアにコスモスポーツと同じ10A型ロータリーは搭載され、翌1968年に2ドアクーペに搭載されてロータリークーペとしてデビュー。
さらにその翌1969年には、4ドアセダンにも搭載されて、ファミリアロータリーSSとしてロータリー・スポーツセダンになったのでした。
大衆車ファミリアでありながら、100馬力のハイパワーと超高回転型のロータリーエンジンの組み合わせは、当時の大衆車として異常なほどの高性能で、あまりに小さすぎてコーナリングが苦手な直線番長ではありましたが、以後マツダ各車のロータリーエンジン化の魁となったのでした。
1967年にデビューした2台の大衆車は、「大衆車なのだから性能はある程度我慢、そこそこで収まり買い求めやすい方がいい」というそれまでの大衆車に風穴を開けました。
大衆車であっても、スポーツカー顔負けの高性能車が作れる、というより日本ではまだ高性能スポーツカーが少なかった時代、大衆車のハイパフォーマンス版こそが、身近なスポーツカーになったのです。
ただの移動手段やステイタスだけではなく、本能に訴える存在へと、大衆車がさらに進化したと言えるでしょう。
次回は、そんな本能に訴える存在を、本能に従って作ったらものの見事に大失敗作になって歴史に残った、ホンダ1300を紹介します。