あなたはフジキャビンを知っていますか?
現在、国土交通省が未来の個人向け自動車交通として規格策定を模索している「超小型モビリティ」。 ミニカー(排気量50ccまでの原付4輪自動車)以上、軽自動車以下の2人乗り自動車として考えられていますが、それ以前にもミニカーや初期の軽自動車など、「日本向け」の自動車はさまざまに開発されていました。 その中でも、超小型モビリティが目指す「125ccエンジンまたは同等のモーターを搭載した2人乗り自動車」にもっとも近いのが、富士自動車が開発し、短期間ながら販売されたフジキャビンです。 空冷単気筒125ccガソリンエンジンをリアミッドシップに搭載して1輪のリアタイヤを駆動、フロントタイヤは左右2輪の3輪車。 全幅1,250mmと小さいながらも並列2名乗車が可能なボディはFRPで左右ドアを持った後期型でも車重わずか150kg。 なにぶん昔のことゆえ、これだけ軽量でも125ccエンジンでは動力性能不足だったとはいえ、まるで「超小型モビリティ」を数十年先取りしたような車は、なんと1955年に登場しました。 結果的に短命に終わったフジキャビンですが、そのスタイルや先進性から現在に至るまでファンは多く、少数生産されただけの初期国産自動車の中で傑出して語り継がれる存在となっています。 これを開発した富士自動車とは、どんな自動車メーカーだったのでしょうか?
その源流のひとつには、名だたる会社がズラリ
富士自動車が設立されたのは1953年、2つの会社が合併して誕生しましたが、その源流の1つたる「東京瓦斯(ガス)電気工業」は名門中の名門の1つとも言える大企業です。 通称「ガスデン」とも言われた同社は、1910年に東京瓦斯工業として設立、その名の通りガス器具の製造会社でしたが、電気器具もそのラインナップに加えたことで1913年に東京瓦斯電気工業と改名。 1917年には自動車部、続いて航空機部も設立され、主に軍用の自動車やそのエンジン、そして航空機用エンジンの開発、生産を開始しました。 三菱や中島(現在のスバル)、川崎など当時から存在した大企業とは異なり、その業績が現在まで広く伝わるほどメジャーな存在ではありませんでしたが、トラックやバス、さらに国産小型航空機用エンジンのメーカーとして欠かせなかったのです。 特に1931年以降、トラックや乗用車などは「ちよだ」ブランドを名乗り、当時としては優れた車両が軍民問わず多く使われています。 その後、他社との合併や自動車部の分離独立を経て、東京瓦斯電気工業はいすゞ自動車(1949年改称)の、同自動車部は日野自動車(1942年設立)となって、今に至る前身となりました。 そして航空機部は日立航空機(1936年設立)、工作機械部門は日立精機(1936年設立)となって、一時期日立グループの一員だったこともあります。 まさに現在に通ずるビッグネームがズラリ立ち並ぶ東京瓦斯電気工業というルーツ、それは戦後に再び脚光を浴びることになるのでした。
輸入車コーチビルダーを前身とする日造木工から富士自動車へ
もう一方の源流も、自動車の歴史と無縁ではありません。 1914年、輸入自動車に木造のオリジナルボディを架装するコーチビルダーとして誕生した後、1943年に日造木工所と改名、戦時中は他のさまざまな企業と同様、軍需品メーカーとなり、戦後は家具など木工品を作っていた「日造木工」です。 1947年に日産自動車の指定工場となって、翌1948年には「富士自動車」と改名。 占領軍のジープやトラックなど軍用車両の修理・解体・再生事業を軸に、戦後の近代自動車産業の一角として急成長を遂げていきます。 その勢いで1952年には米クライスラーと提携し、同社の乗用車「プリムス」のノックダウン生産(本国で生産された部品を輸入した最終組み立て)を開始。 いわば、当時の日野(仏ルノー車のノックダウン生産)や日産(同、英オースチン車)、いすゞ(同、英ヒルマン車)と同じことを始めたわけですが、自動車産業の乱立による共倒れを恐れた通産省(現在の経産省)からの妨害もあって、少数生産のみで頓挫します。 しかし富士自動車は自動車メーカーになることをあきらめたわけではなく、1953年には戦後に日立航空機の後身として社名が復活していた、東京瓦斯電気工業と合併。 「ガスデン」ブランドを手に入れた富士自動車は、戦後の近代自動車メーカーとして大きく羽ばたくはずでした…。
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