ダイハツのレースへの思い、そしてクルマへの思い。
ダイハツのレースにかける思いと、短くも大きな夢
◆初の乗用車「コンパーノ」でレースデビュー
トヨタ・スポーツ800やホンダのS600/800の同期にはもう一台のスポーツカーがありました。
イタリアンデザインのオープンカー、日本初の機械式インジェクション(燃料噴射装置)、排気量も800ccから始まり、後期は余裕の1000cc、それがダイハツの「コンパーノ」です。
「ダイハツ・コンパーノ・クラブ」という愛好会(略称DCC。後にDCCS「ダイハツ・クラブ・オブ・スポーツ」というJAF加盟モータースポーツクラブとなる)も存在し、人気もあったのです。
1965年には「コンパーノ・スパイダー」がレースデビュー、7戦のレースで2回の優勝を記録し、翌年のレースに繋げていくのでした。
◆ コンパーノ改「P1」と日本版アバルトレーサー「P2」
1965年レースシーズン後半の「コンパーノ」には、実はエントリー名こそ「コンパーノ」なものの、姿形の異なる2種類のレーシングカーが実験的に参戦していました。
コンパーノ・スパイダーのフロントノーズを伸ばして整形し、整流効果の高いハードトップを装着して空力を改善処理した「P1」と、セダンのコンパーノ・ベルリーナのボディをイタリアの「アバルト」風の流麗なものに改造した「P2」です。
当時の日本のレースではまだ空力に配慮したボディというのが少なく、メーカー系レーシングカーの中ではダイハツが先んじて取り入れた形となりました。
◆「ダイハツのピー子ちゃん」究極のコンパーノ改P3
続いて1966年にデビューしたのが「P3」です。
ズングリとしたボディに鳥のくちばしのような鋭いノーズ、そして尻上のダックテールを備えたアヒルかヒヨコのような姿は、黄色のボディカラーも相まって、よく言えばユーモラスな姿でした。
それでいてコンパーノから1300ccに排気量アップした、当時としては先進的なDOHC16バルブエンジンを搭載したので、小さいながらもハイパワーなのです。
1966年5月の第3回日本グランプリに現れた2台のP3は、トヨタ2000GTやプリンスR380、ジャガーXKEといった大排気量車を相手に健闘し、完走9台中7位、同クラスのロータス・エリートやアバルト・シムカを抑えてクラス優勝を達成していました。
この時、サーキットのアナウンスは小さくユーモラスな姿ながら懸命に走るP3を見て、「ダイハツのピー子ちゃん!」と連呼し、声援を送ったと言われています。
かわいい「ピー子ちゃん」でしたが、7月の「富士ツーリストトロフィーレース」では何とスカイラインGTを抑えて総合優勝し、「かわいいだけでなく速い」事も証明したのです。
◆ダイハツ最初で最後の本格レーシングカー「P5」
P3まではコンパーノのフレームにオリジナルボディを載せて結果を出しましたが、同時にポルシェ906やR380のような本格的レーシングカーに対する限界もまた明白でした。
そもそも小排気量エンジンしか持っていない、予算も限られた小メーカーのワークスにとって、対抗意識を燃やす相手が違うのでは無いかという声は無かったのかとも思いますが、ともかくダイハツは本格的レーシングカーを作る事に決めます。
とはいえ、当然ノウハウも何も無いので、ポルシェが修理されると言えば構造を観察するために見物に出かけ、「ミッドシップエンジンのレーシングカーとはこういうものか!」と大いに見識を得るところから始めたのです。
それで本当に作れるのかと思われそうですが、そこはさすがにメーカーで、ポルシェやR380と同じ鋼管フレームに風洞実験を重ねた流れるようなボディをまとったレーシングカー「P5」が誕生したのでした。
もちろんエンジンはミッドシップに搭載です!
しかし、早速1967年の第4回日本グランプリに持ち込まれたP5は、エンジントラブルで2台とも予選落ちするという残念な結果でレースを終えてしまいます。
◆ダイハツワークス、サーキットでの最後の栄光
1968年5月の第5回日本グランプリではボディもエンジンも一新し、戦闘力も増した「P5」で問題なく予選を突破します。
本戦では4台中3台の「P5」が次々にトラブルに襲われ脱落しますが、最後の1台が日産R380やトヨタ7、ポルシェ906といった大排気量本格レーシングカーに続く総合10位でチェッカーを受け、クラス優勝で前年の屈辱を晴らしたのでした。
その後もP5はレースへの参戦を続け、9月の「鈴鹿1000kmレース」ではマシントラブルを抱えながらもトヨタ7とポルシェ906に続く総合3位に飛び込むなど活躍します。
大排気量マシンを相手になぜそこまで健闘できたかと言えば、軽量で空力に優れたボディに小排気量エンジンの組み合わせは、燃費に優れていたため、長距離レースでは燃料補給のためのピットインが少なかったからです。
後のダイハツが、ハイブリッドなどのハイテクに頼らず優れた燃費を叩き出す軽自動車を作る原点は、こんなところにもあったと言えるでしょう。
実際、翌1969年1月の「鈴鹿300kmレース」の小排気量部門ではホンダS800改「マクランサ」などのライバルを抑えて総合優勝していたのです。
◆突然の終焉
ここまでマシンを熟成させていたダイハツワークスでしたが、突然チームは解散、ドライバーは全員解雇という結末を迎えます。
1967年にトヨタの傘下になる際、「ダイハツは軽自動車として専念する」事が決まっていたためです。
せっかくのP5も、ようやく現れた好敵手「ホンダR1300」と1969年6月に戦った「富士1000kmレース」を最後に、ダイハツワークスとしての役目を終えました。
P5そのものは翌1970年、プライベーターの手で「京葉GT」と名を変え復活しましたが、その年を最後に完全に引退しています。
こうしてダイハツワークスの短い夢は終わり、「コツコツと真面目に車を作り続ける、地味な軽自動車メーカー」としての印象が強い、今のダイハツに至るのでした。
それでも50年近い昔の伝説は、根強いファンによって今でも語り継がれています。