今は日産の子会社として自動車部品を開発生産している愛知機械工業ですが、かつては潜水空母用の攻撃機も作る航空機メーカーでした。
戦後は三輪トラック「ヂャイアント」や軽ピックアップトラック「コニー・グッピー」など、小規模ながらユニークな自動車メーカーだった事でも知られています。
◆ 愛知機械工業とは?
ガスや水道関連機器などで精密機器の製造をしている「愛知時計電機」の航空機部門として、日本海軍の「横廠式(よこしょうしき)ロ号甲型水上偵察機」の製造を始めたのが1920年(大正9年)の事です。
当時の愛知時計電機は砲弾を炸裂させる「信管」と呼ばれる装置の他、主に海軍向けに機雷や魚雷発射管などを製造していた精密機械メーカーでした。
ドイツの航空機メーカー「ハインケル」と提携して水上機や急降下爆撃機の設計を依頼したり、製造権を買い取る事で航空機の自力開発のための技術を蓄積し、複葉の急降下爆撃機「九四式艦上爆撃機」「九六式艦上爆撃機」など、当時の日本海軍の主力機製造の一翼を担っています。
1943年には「愛知航空機」として独立、終戦後は「ヂャイアント」ブランドでオート三輪の、「コニー」ブランドで軽商用車メーカーとなった後、現在は日産自動車の子会社として自動車部品メーカーとなりました。
◆空母機動部隊の活躍とともにあった名機「九九式艦上爆撃機」
「艦爆の愛知」としてその名を轟かせる事になる名機「九九式艦上爆撃機」(通称:九九艦爆)が誕生したのは、1938年(昭和13年)の事でした。
初期の不良箇所を改めて正式採用されると、誕生したばかりの「第一機動部隊」の航空母艦に搭載されて艦爆隊を編成します。
太平洋戦争が始まると、機動部隊は真珠湾攻撃に参加、九九艦爆も飛行場制圧や小型艦の攻撃に加わりました。
真珠湾攻撃が「米太平洋艦隊主力戦艦の壊滅」という形で成功に終わると、機動部隊は「世界最強の艦隊」として戦い続けます。
特に九九艦爆が活躍したのはインド洋でイギリス海軍の空母「ハーミス」や巡洋艦「コーンウォール」「ドーセットシャー」を撃沈した時で、90%以上という驚異的な命中率で爆弾を叩きつけ、艦爆隊のみで決着をつけてしまったのです。
その後、史上初の空母決戦「珊瑚海海戦」や、日本海軍の大敗北で終わった事でその後の戦争の流れを決定的にしてしまった「ミッドウェー海戦」、日本海軍機動部隊の最後の勝利となった「南太平洋海戦」でも九九艦爆は活躍し、雷撃隊と共同で米空母3隻を撃沈します。
しかし、後継機「彗星」や「流星」がエンジン不調や整備性、生産性が悪く、十分に稼働できなかったため九九艦爆は戦争末期まで現役にある事を余儀なくされました。
車輪が引き込み式では無く固定式だったため遠くからでも見分けがつけやすく、戦闘機からはいいカモになってしまう事も多かった九九艦爆は損害も大きく、最後は特攻機として消耗していった、栄光と凋落の激しい飛行機だったと言えます。
◆ 伝説の潜水空母用攻撃機「晴嵐」
愛知航空機は艦爆の他にも、水上機を得意としていました。
艦隊や地上基地の目として全戦域で偵察に活躍した「零式水上偵察機」や、水上機でありながら強力な武装で対艦攻撃や空戦にも活躍した水上爆撃機「瑞雲(ずいうん)」が有名です。
そして日本海軍最後の作戦として計画された「潜水空母による重要拠点攻撃」のために開発された、特殊攻撃機「晴嵐(せいらん)」もまた、愛知航空機が開発、生産したものでした。
大型とはいえ狭い潜水艦に格納するため、分解・格納・展開が容易な設計でありながら、高速で大型の爆弾や魚雷を搭載可能で、戦争末期の日本の技術力を結集したな高性能攻撃機でしたが、愛知航空機が1944年の東南海地震や1945年6月の熱田空襲で大被害を受けたため、少数の生産に終わっています。
「晴嵐」3機を搭載可能な「イ400級」および2機を搭載可能な「イ13級」の大小2種の潜水空母数隻で編成された、史上唯一の潜水空母機動部隊は、終戦直前に数隻が出撃しています。
攻撃開始直前に終戦となったため実戦参加はしませんでしたが、「晴嵐」と潜水空母を捕獲した連合軍、ことに米海軍は徹底的な調査を行い、隠密性の高い潜水艦による遠距離奇襲攻撃というコンセプトは、後にSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)を搭載した戦略ミサイル原子力潜水艦に発展しました。
◆ 戦後の「ヂャイアント」と「コニー」
終戦後に民需転換して「愛知航空機」から「愛知機械工業」に変わると、オート三輪トラック「ヂャイアント」の製造・販売で自動車メーカーに変貌します。
さらに軽自動車にも進出し、軽商用車「コニー」シリーズを開発しました。
先進的なモノコックボディと四輪独立懸架、リアエンジンという意欲作「コニー・360コーチ」など優れた設計で好評でしたが、乗用車としてはスバル360やホンダN360などが圧倒的なシェアを誇っていた時期でコニーはどうしても販売台数を伸ばせない状況が続きます。
◆最後の意欲作「コニー・グッピー」
苦境からの打破を図った愛知機械工業は、軽自動車よりさらに一回り小型簡素な軽ピックアップトラック「コニー・グッピー」で逆転を図ります。
アンダーフロアミッドシップに搭載した199cccエンジンで後輪を駆動し、トルコン式オートマでイージードライブが可能なグッピーは小型軽量ながらも積載性に優れ、取り扱いも簡便容易ではありました。
しかし、エンジンが小型すぎてアンダーパワー、四輪独立懸架の足回りは過積載が常識化していた軽商用車としてはあまりにも華奢で走行性能劣悪とされてしまい、市場に受け入れられなかったのです。
結局、航空機製造から始まり、「九九艦爆」や「晴嵐」などの名機を生み出し、戦後はオート三輪の「ヂャイアント」や「コニー」で知られた愛知機械工業は、「グッピー」や「360コーチ」の失敗で自動車メーカーとしての事業継続を断念し、1970年には「コニー」の生産ラインを閉じて、日産自動車傘下の部品メーカーとして存続する事になりました。
◆その誇りは今でも
日産の部品メーカーとして表舞台から姿を消した愛知機械工業。
大規模量産まで実現し、ある程度ブランドも浸透した企業としては唯一、自動車メーカーとしては完全に消滅してしまいました(プリンスは日産との合併後も、旧プリンスの技術者や工場による開発が継続され、スカイラインなど今でも車名が残っています。)
しかし1990年代に入ってかつての「コニー360」や「グッピー」のレストアが社内のクラブ活動として始まり、数台が再生されています。
飛行機メーカーや自動車メーカーとしては存在しなくても、かつての名機や名車を作った魂はいつまでも、という事なのかもしれません。
その「コニー・ヂャイアント復元クラブ」のほか、そこで復元されて愛好家に渡ったものなどを含め日本各地でまだ数十台の「コニー」や「ヂャイアント」が現役です。
また、潜水空母用の特殊攻撃機「晴嵐」の、アメリカのスミソニアン博物館でレストアされたものが展示されています。