テスト走行では交通取締りの警官すら魅了し、発売されるや全米大ヒット!後に完全レストアモデルも大人気となったフェアレディZのたどった道とは。
最初は「Z」ではなかったフェアレディ
現在でも日産の作るスポーツカーの代名詞と言える「フェアレディZ」。
その源流をたどると、1935年(昭和10年)に生産開始された、「ダットサン14型ロードスター」まで遡れます。
太平洋戦争を経て終戦後には乗用車の生産が占領軍に厳重に制限された時代が続き、日本の自動車産業は戦中・戦後を通じて米英など先進国より遅れを取ったものの、その差は飛行機とは違い、致命的なものとはなりませんでした。
かつてスポーツカーを作っていた日産は、1952年に日本が連合軍の占領下を脱するや「ダットサン・スポーツカーDC3」を発表したのです。
それまでの停滞振りを現すように、トラックのシャシーに戦前のダットサン・ロードスターと代わり映えのしないボディを載せただけの代物でしたが、1959年にはメカニズムも面目も一新した「ダットサン・スポーツ1000」を発表します。
北米でテスト販売された後に1960年にはSPL212型「フェアレデー1200」に発展し、1962年には1500ccに拡大したSP310型「フェアレディ1500」が発表、ようやく日本でも販売開始されました。
1600ccのSP311「フェアレディ1600」を経て1967年には「フェアレディ」の決定版、SR311型「フェアレディ2000」が最終発展型として登場しています。
この「フェアレディ」が当時の日産最強のスポーツカーで日本グランプリなどレースでも何度も勝利を重ね、、1966年にプリンスと合併してからはS54B「スカイラインGT-B」と共に、日産のスポーツイメージを牽引していたのです。
北米市場で攻勢のため開発されたS30型初代「Z」
そこそこの成功を収めていた「フェアレディ」でしたが、国産エンジンの信頼性を高めながら次第に大排気量化、パワーアップを進めつつも、基本的には欧米のライトウェイト・オープンスポーツの模倣に過ぎませんでした。
当時の米国日産の社長だった「片山 豊」氏によって完全日本オリジナル、かつ北米市場のニーズを取り込んだ、北米日産のイメージリーダーとなるスポーツカーが求められた事により、S30型「フェアレディZ」が生まれます。
当時の英国産スポーツカー「ジャガー・Eタイプ」同様のロングノーズ・ショートデッキのスポーツカーデザインを踏襲しつつも、軽量で空力に優れ、躍動感のあるボディ、獲物を狙う鳥類を思わせるアグレッシブな丸目2灯のヘッドライト、最大4人が乗車しても十分な荷物が積めるラゲッジ、十分な動力性能、高い信頼性、そして安価。
数々の問題点をクリアするため北米での公道テストに挑んだプロトタイプは、交通取締りの警官に引き止められ、「何だこの車は?いつ発売するんだ?発売されたら俺に売ってくれ!」と興奮させたエピソードまで語られるほどでした。
いよいよ1969年に発売されるや全米で爆発的なヒットを成し遂げ、「ダットサンのZ(ズィー)カー」は思惑通りに北米日産のイメージリーダーとなり、2000年代に入ってからは「ヴィンテージ・Z」としてレストアされたS30が再び人気を博すなど、長年愛されルモデルとなります。
日本でもほぼ同時に発売されたS30はトップモデルとしてスカイラインGT-Rと同じS20型エンジンが搭載された「Z432」がトップグレードでしたが、実際に人気だったのは北米と同じ2400ccのL24型エンジンを搭載した「240Z」です。
L型エンジンそのものが基本スペックそのものは平凡だったものの、チューニングベースとなった場合には飛躍的な高性能を成し遂げた事から、21世紀になった今でもターボ化やNAのままでのメカチューンなど、オールドカーチューンの格好の素材となり、それを搭載したS30型Zも日米双方で数多く現存しています。
西部警察「スーパーZ」が憧れの的だったS130型2代目「Z」
1978年に登場した2代目のS130型はエンジン、ボディともに初代を正常進化させ、自動車に詳しくない人であればモデルチェンジより「ちょっと変わった程度」の変化ではありましたが、それだけ初代Zのデザインが優れていた証でもあります。
引き続き北米では人気だった2代目Zが日本で脚光を浴びたのはドラマ「西部警察」で、渡哲也が扮する大門警部愛用の特殊パトロールカー「スーパーZ」として登場した時です。
名優・石原裕次郎率いる石原プロは主に日産車をドラマに使いましたが、「西部警察PARTII」ではC210型スカイラインGT(通称:スカイラインジャパン)の後継としてS130型フェアレディZが登場、以後R30型スカイラインRS3台による「RS軍団」と共に七曲署「大門軍団」のスーパーパトカーとして劇中で活躍しました。
Tバールーフモデルをベースにガルウイングに改造されたもので、日本においてS130フェアレディZは当時のスーパーカーブームにも乗り、国産車の中では数少ない少年の憧れの元になったほか、「よろしく!メカドック」など自動車が登場する多くの漫画などでヒーローのように扱われたのです。
円高で付加価値向上が図られたZ31型3代目「Z」
1980年代に入ると円高の影響で、北米市場では「安価なスポーツカー」としての立場が危うくなりました。
そこで新開発のV6エンジン「VG」を搭載し、ロングノーズ・ショートデッキのスタイルはそのままに空力をリファインしたのが1983年登場、3代目のZ31型です。
このモデルは北米では引き続き好評だったものの、それまでの丸目二灯から角型異形ヘッドライトへの変更など大きく変わったデザインや、V型6気筒SOHCターボのVG20ETエンジンのフィーリングが国内では受け入れられず、後に直列6気筒DOHCのRB20DETエンジン搭載型が追加されています。
そのため、RB20DETに代えてR32GT-R用のRB26DETTエンジンに換装されるなどチューニングベースにはなったものの、ベースモデルはシーマやスカイラインがよりハイパワーエンジンを搭載する中で地味な存在となってしまい、歴代フェアレディZの中ではもっとも影の薄い存在になってしまいました。
日産の絶頂と最悪の時期を支えたZ32型4代目「Z」
1989年ニデビューした4代目のZ32は、90年代の技術世界一を目指す「901運動」の成果の一つとして、Z史上最強とも言えるモデルとなりました。
Z31で旧来のデザインを中途半端に化粧直ししていたようなデザインから一転、全く新世代の流麗かつグラマラスなデザインとなり、搭載された3リッターV6DOHCツインターボエンジン「VG30DETT」は国産車で初めて280馬力に到達、同時期デビューのR32型スカイラインGT-Rと共に、国産車の「280馬力規制」のキッカケとなります。
ターボモデルに設定された日産独自の4WS機構「スーパーHICAS」によるコーナリングも秀逸で、バブル景気もあって、GT-Rともども日産のスポーツイメージリーダーとなりました。
その後はエンジンルームに余裕の無い設計が災いし、新エンジンへの換装など抜本的な改良はなされなかったものの、5度の小改良を経て11年の長きに渡り生産が続けられます。
901運動の成功で発売されるあらゆる車種が絶賛された絶頂期から一転、発売するほとんどの車種が大不評で極度の販売不振にあえいだ日産の中で、かつての栄光の灯を細々と灯すように販売が続けられていましたが、2000年にはついに生産中止となりました。
まとめ
最後は北米でのスポーツカー不振もあって、本当に細々と生産が続けられているような状態ではありましたが、日産の北米市場での飛躍からバブル景気での絶頂、そしてそこから坂を転げ落ちるような経営危機への転落という日産自動車の歴史の渦中で、常に中心にいたのがZ32までの「フェアレディZ」でした。
日産の旧きよき時代を語ろうとする時には、決して欠かせない車、むしろ「Z」が日