「ホンダを作った男」日本自動車史の伝説「本田宗一郎」その2「親父は最後まで技術者だった」

本田宗一郎は経営者だったのか、技術者だったのか

「本田宗一郎」という人物を「偉大なる経営者」と評価する人がいます。
しかし、実際はどうだったのでしょうか。
1948年(昭和23年)に設立された本田技研工業。1949年(昭和24年)に、すべてを自社生産で作り上げた自動二輪第一号「ホンダドリームD型」を発表しました。
その年、福島県で製材業を営んでいた藤沢武夫氏が同社の常務として加わったことで、財務や販売等の経営を一手に引き受ける事になります。
この「経営の藤沢・技術の本田」というツートップ体制が、同社を一気に日本有数の自動車メーカーに引き上げる原動力になったのです。

1954年(昭和29年)に宗一郎氏が発表した「マン島TTレース出場宣言」も、藤沢氏の進言により行われたものでした。
名番頭・藤沢氏に経営を任せたからこそ、宗一郎氏が技術者として現場に専念でき、二輪・四輪で初期の成功を収めたとも言えます。

人情の技術者・本田宗一郎

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開発・生産現場での宗一郎氏は、一切妥協を許しませんでした。
軽自動車で高級外車のクオリティを実現するためにメルセデス・ベンツを参考とし、技術者には実際に運転させるようなことも行っていました。
常に120%の結果を求め、
「100%を目指したんじゃあ、人間のすることだから、1%やそこいらのミスをする。その1%を買ったお客さんには、Hondaは、100%の不良品をお売りしたことになってしまう。だからミスをなくすために120%を目指さなければならないんだ。」(Honda公式サイトより)
と怒鳴り、拳を振り上げ、殴りながら涙を流す、人情あふれる技術者でした。

どこまでもお客様の事を考え、心遣いの気持ちを大事にし、怒鳴るにしても相手を選んで、見込みのある人間にだけに怒るような方だったのです。

本田宗一郎の限界

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しかしあるときを境に、宗一郎氏の頑固な職人気質が、会社の足を引っ張る結果となってしまいました。
「水冷エンジンと言っても、結局は冷却水を流したラジエターに風を当てて冷やす。それなら最初から空冷エンジンの方が、軽くて効率のいいエンジンを作れる。」
という持論があった宗一郎氏は実用乗用車に加えて、当時参戦を始めていたF1でも空冷エンジンにこだわりました。

空冷エンジンの試作結果より、宗一郎氏の理想が実現不可能なことは、皆分り切ったことでした。それでも宗一郎氏は頑として首を縦に振りません。


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コメント:
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