【週刊 F1レーサー #3】F1界を生き抜いた、アラン・プロスト

彼の華やかでいて壮絶な人生をご紹介します。


ポールポジションは今日もセナ。けれど1時間半後フィニッシュを迎えるとトップチェッカーを受けるのはなぜか青いヘルメットのフランス人…

「プロフェッサー」アラン・プロストのかける魔法は正確だけど時に軋轢を生む諸刃の剣でした。

「教授」が生まれた日

プロストにとっての転機は1984年、二度のワールドチャンピオン経験を持つニキ・ラウダとタイトル争いを演じた時です。この年プロストは予選では16戦中15戦でラウダを上回り勝利数でもプロスト7勝に対しラウダ5勝と速さでは完全にプロストが上でした。

しかしこの年のワールドチャンピオンはわずか0.5点差でラウダのものとなりました。
この経験から「速さを前面に押し切る」スタイルから「戦略を立ててマシンを労りながらレースを組み立てる」事の重要性をプロストはラウダから学びました。

単に「レースを勝つ」だけでなく「チャンピオンシップを勝ち取る」方法を理解したのです。
プロストらしさの真骨頂が発揮されたのが1990年メキシコGPです。

予選13位スタートながらレース用セッティングを煮詰め、タイヤを労りながらジワリジワリと追い上げていきます。序盤のタイヤ浪費で後半苦しむマクラーレン2台(セナ・ベルガー)を華麗にオーバーテイクして優勝を遂げたあのレースがプロストのキャリアの集大成といえます。

雨が苦手だった理由

1982年ドイツGP予選でプロストは大きなアクシデントに遭遇します。

霧雨で視界が悪いコンディションでの予選、前方のスロー走行中のマシンに道を譲られたプロストはレコードラインにマシンを戻します。

そこへ全開アタック中だったフェラーリのディディエ・ピローニがプロストを視認出来ず後輪に乗り上げる形で接触、ピローニのフェラーリは宙を舞いプロストの前方地面に叩き付けられました。

自分に非は無かったのですが同じフランス人で親友のピローニが両足切断寸前の怪我を負う様を目撃したプロストは雨中のレースに大きなトラウマを抱える事になります。

またプロストはこんな発言をしています。

1980年のワトキンスグレンのレースで事故にあった際、負傷により右目の視力が低下していたf1-gate.com

これらが重なれば雨中のレースが苦手になるのもやむを得ない事です。

名レーサー名オーナーにあらず

レーサーを引退後、プロストは1997年リジェチームを買収しチームオーナーとして現場に復帰します。しかし結果はついて来ず2001年に撤退…「プロスト」の名前だけではビジネス化したF1で生き残る事は出来なかったのです。

当時を思い出しながらプロストはこんな話をしています。

アイルトンに『わたしがいつかチームを持って君がわたしのドライバーになったら面白いだろうな』と言った(中略)それが実現していたら素晴らしかっただろうねf1-gate.com

「キャリアの最後をプロストのチームで終えるセナ」というストーリー、見てみたかったです。