消滅した自動車メーカー・その1「ゆけゆけトラバント!VEBザクセンリンク(東ドイツ)」

車名は有名、社名は無名なVEBザクセンリンク

消えてしまった自動車メーカーでも、国産車メーカーなら何となくああ、あれかなとピンと来る人も多いと思います。
それがプリンスのようなビッグネームならもちろん、愛知機械工業のように今でも下請けメーカーとして健在なものもありますし。
しかし海外のメーカー、それもメジャーなメーカーではない上に1990年頃の冷戦終結以前の東側諸国の自動車メーカーで、冷戦終了と共にパッタリと潰れてしまったようなメーカーともなれば、共産主義や社会主義の分厚いカーテンが開いた瞬間には倒産が決まっていたようなものですからどうしようもありません。
しかし、国破れて山河あり、メーカー潰れてクルマありという事で、メーカーがあっという間に潰れてしまっても、クルマだけは相変わらず残って走り回っているものですから、車名ばかりが有名となって社名と勘違いされていそうなケースもあります。
旧東ドイツ(旧ドイツ民主共和国)、現在は統一されてドイツ連邦共和国のザクセン州ツヴィッカウにあった、VEBザクセンリンクもそんな自動車メーカーのひとつでしょう。
ここは何のメーカーといえば、1989年のベルリンの壁崩壊と1990年の東西ドイツ統一によって一挙に有名になった旧東ドイツの国民車、トラバントを作っていたメーカーなんです!

VEBザクセンリンクの生い立ち

そもそもVEBザクセンリンクなるメーカーがどうしてできたかといえば、第二次世界大戦でドイツが敗北した時、西半分は米英仏の西側連合軍が、東半分はソ連軍は占領し、そのまま西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と東ドイツを作ってしまった事に始まります。
元々1つの国でしたから全国に事業所の散らばるドイツの大メーカーも存在し、DKW、ヴァンダラー、アウディ、ホルヒの4社が合併して1932年に設立された当時のドイツ第2位自動車メーカー(第1位はオペル)、アウトユニオンも東西ドイツに存在しました。
そのうち西ドイツ側の事業所と工場は新生アウトユニオンとして戦後再出発してアウディとなり、フォルクスワーゲングループに組み込まれて今に至っています。
では東ドイツではどうかと言えば、合併前の工場がバラバラに国営工場として独立、ザクセン州ツィッカウの旧ホルヒ工場は、1949年に東ドイツ国営企業VEBザクセンリンクとして再出発したのでした。
ホルヒは元々高級車メーカーで、旧アウトユニオンに合併後も高級車ブランドとして存続していましたが、ナチス御用達という事でソ連とその傘下の東ドイツ政府に嫌われ、VEBザクセンリンクは当初、大衆車ブランドであるDKWが戦前に開発していた大衆車のマイナーチェンジ版や、産業用のトラックを生産していました。
しかし、1950年代半ばにはそれらの生産は同じく旧BMWアイゼナハ工場から国営企業となっていたアイゼナハー・モトーレンヴェルクに移管し、VEBザクセンリンクにはさらにその下のカテゴリーのコンパクトカーの開発・生産を担当する事になります。
それが世にも名高き「トラバント」です!

事実上VEBザクセンリンクが専用工場となったトラバントはどんなクルマ?

1958年からVEBザクセンリンクで生産を開始したトラバントは、その当時としては割と平均的なクルマでした。
ラダーフレームの上に軽量なFRPボディを載せ、エンジンは当初500cc、後に600ccの空冷直列2気筒2ストロークエンジンを搭載、車重が600kgも無かったので、動力性能としてはそれで十分でした。
(なお、よく言われる都市伝説として「樹脂で固めたボール紙製のボディ」という誤解がありますが、実際は東ドイツ時代末期の資源不足で表面の仕上げが荒かっただけです)
参考までに同時期の日本の同クラス車でちょうど三菱 500(1960年デビュー)、三菱コルト600(1962年デビュー)があったので比較してみますと、三菱コルト600が初期型を除くトラバントと同じ600ccエンジン(ただし空冷直列2気筒4サイクルOHV)で、トラバントは23馬力/5.5kgf・m、コルト600は25馬力/4.2kgf・mです。
動力性能としてはほぼ同レベルですが、トラバントの方が大きくて重く、居住性や荷室容量で優っているあたり、「国民車」としてはそちらの方が良かったかもしれません。
トラバントでも家族4人が乗って80km/hは出て、最高速度は100km/h前後は出たので三菱500よりちょっと速かった事になります。
三菱 コルト600より4年も早くこのレベルのクルマを作れたのですから、戦争に破れてソ連の衛星国になったとはいえ、さすがはドイツと言うべきだったのかもしれませんが、問題はそのままで1989年のベルリンの壁崩壊まで31年間も作り続けた事でした。
そう、壁が崩壊して西側製品がどっと流れ混んできた時、トラバントには競争力など無かったのです。

何とか起死回生のためトラバントに最後のモデルチェンジ!

「国民にあまり勝手に旅行されては困る」という東ドイツ当局の事情もあってトラバントの生産は進まず、ベルリンの壁崩壊時には600万台以上のバックオーダーを抱えていたと言われるトラバントですが、そんなオーダーは壁が崩壊した一晩で吹き飛びました。
危機を感じたVEBザクセンリンクはすぐさま西ドイツで立派な大衆車メーカーとなっていたフォルクスワーゲンに接触し、同クラスの大衆車「ポロ」のエンジン供給を受けてモデルチェンジを行い、旧式のラダーフレームにボディをかぶせていただけの構造を活かして、全金属製ボディのトラバント・カブリオレなども試作しています。
しかし、西ドイツの住民はそんな旧式車を買わなくても自分たちの側の大衆車を買えますし、東ドイツの住民はモデルチェンジで高価になったトラバントなど買えず、西ドイツのクルマをボロボロの中古でいいから安く買った方が得だったのです。
こうして東西ドイツが1990年に統一される頃にはVEBザクセンリンクの経営は崩壊し、1991年にはトラバントの生産ラインを閉鎖、VEBザクセンリンクはあえなく倒産してしまったのでした。

VEBザクセンリンクは倒れても、トラビは死なず

その後紆余屈折を経て、VEBザクセンリンクは現在、フォルクスワーゲングループの下請け工場、HQMザクセンリンクとして現在も存続しています。
もはや自動車メーカーでは無くなってしまいましたが、かつて作りに作ったトラバントは旧車マニアの懐古趣味にマッチしてそれなりに人気があり、現在でもかなりの数が走り続けています。
元々WRCなど国際ラリーにも参戦できたほど走行性能には素質があったので、今でもチューンドカーがゼロヨンで日産R35GT-Rに勝ってみたり、速度記録車が235km/hという東ドイツ製自動車最高速記録を作ったりと、会社は無くなっても、トラビ(トラバントの愛称)は今でも多くの人に愛されたり、東ドイツ時代を懐かしんだり、冷戦の象徴とされたり、何かと引っ張りだこで今に至っています。


いかがでしたか?
トラバントは知っていても、メーカーのVEBザクセンリンクの事まではよく知らない人も多かったのでは無いでしょうか。
次回は「そしてジムニーは残った。ホープ自動車(日本)」をご紹介します。

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