消滅した自動車メーカー・「くろがねはくすんだ・オオタ自動車工業」

消滅した自動車メーカー第4回は、オオタ自動車工業を紹介します。


大正初期の創業、関東大震災での挫折

オオタの創業者、故・太田 祐雄がオオタ自動車工業の前身となる個人工場「太田工場」を開業したのは1912年(明治45年)6月、同年7月30日から大正時代になるので、大正初期の創業初期と言ってよいでしょう。
当初は小規模な機械工場で模型飛行機や二輪車用ピストンリングなどを作っており、航空機用エンジンの習作なども行っていました。
1917年(大正6年)に工場を巣鴨から神田に移転するとともに自動車用エンジンの修理を本業に、小型自動車の試作を行います。
1922年(大正11年)に完成した1号車、9馬力の965cc4気筒OHVエンジンを搭載した4人乗りオープンカー、「OS号」を市販すべく「国光自動車」を設立するものの、1923年(大正12年)9月の関東大震災で工場が壊滅し、当初の市販化計画は挫折したのでした。

エンジンメーカーとしての再起と、小型車メーカーとしての出発

震災で壊滅した東京で被災を免れた「OS号」で個人タクシーを営みつつ、太田氏は工場の再起を図ります。
「OS号」がその後約10年、9万6,000kmほど走りきるほど完成度が高かった事もあって特にエンジンには自信があり、また経営規模も小さい事からまずはエンジンメーカーとして再起でした。
いくつかの小型エンジンを作った後で、当時無免許で運転できる小型自動車の排気量上限が750ccに拡大した事を受けて、再び自動車産業への参入を図ります。
それが1933年(昭和8年)に販売開始したオオタ750ccトラック、バン、セダン、ロードスター、フェートンでした。
これにより、ダットサンと並ぶ「小型車のオオタ」は日本自動車界の表舞台に飛び出します。

高速機関工業の設立

小型車の販売を開始してからも零細企業のままで経営の厳しかったオオタですが、新興財閥の日本産業グループが設立した「日産自動車」(ダットサン)の影響もあり、三井財閥からの協力で「高速機関工業」を設立、三井物産が販売代理店となって販売網の構築にも着手します。
それでも日産との生産規模の格差は激しく、オオタが小型乗用車を1,000台も作れない時期に日産はダットサン小型乗用車を8,700台以上作っていました。
戦前の国民車的存在だったダットサンに対してオオタは小規模に過ぎましたが、それでもレースの小型車クラスでダットサンがよほど本気を出したワークスカーを持ち込まない限り勝利を続け、生産台数は少なくとも性能では上回る事を示し続けたのです。

戦時中の停滞と、戦後オオタ自動車としての再出発、そして倒産

満州事変や上海事変を経て日中間の戦争が激しくなると、小型自動車専業メーカーだった高速機関工業は軍需用自動車生産には適さないとされ、三井財閥から立川飛行機傘下に移された上で、航空機部品や消防ポンプ用エンジンの生産に専念し、太平洋戦争が始まると自動車生産は一時休業となりました。
戦後1947年(昭和22年)には小型自動車の生産を再開するも需要減少、車体もエンジンも戦中に休業していた事から陳腐化、さらに新規開発余力も無く、人材が流出した事もあって、同じような苦境から立ち上がっていったトヨタや日産などから取り残されていきます。
1952(昭和27年)年にはオオタ自動車に改名して乗用車やトラックの生産を本格化させるも、直後に朝鮮戦争が終わった事による大不況が襲い掛かり、川崎に作っていた新工場への投資がたたって1955年にはあっけなく倒産してしまいました。

最初で最後のヒット作「くろがね ベビー」、そしてまた倒産

倒産したオオタ自動車を引き取った東急グループは既に傘下に収めていた「くろがね3輪トラック」の日本内燃機とオオタを合併させ、1957年(昭和32年)に「日本自動車工業」を設立、1959年(昭和34年)には再び車名を「東急くろがね工業」に改、統一ブランド「くろがね」で3輪・4輪トラックメーカーとして再出発しました。
1960年(昭和35年)には軽4輪トラック「くろがね ベビー」が発売されてヒット。
オオタ時代からヒット作に恵まれず、老舗自動車メーカーとして知名度はありつつも規模が小さすぎて紆余屈折を経てすっかり弱体化していた中で初めてのヒット作でしたが、同時に最初で最後のヒット作となりました。
ベビーが発売された翌1961年(昭和36年)に新型軽トラック、スバル サンバーとスズライト(スズキ) キャリイが登場。
販売力の差で全く歯が立たずベビーの売上は急降下、新工場への投資もたたり1962年(昭和37年)には東急くろがね工業も倒産。
ベビーの生産も中止されて、オオタ車の歴史もそれでオシマイとなりました。


その歴史の中で挫折と復活を繰り返す自動車メーカーと言えば、現存するメーカーですとマツダが代表的です。
しかし、その初期からひたすら挫折を繰り返し、復活してもさあこれから規模拡大だ、という投資が最悪のタイミングであったり、最後のベビーなどライバル車に先行したのがアダになるという、とにかくひたすら「不幸続きのメーカー」でオオタの右に出るものはそう無いでしょう。
なお、オオタ自動車の最終形態である東急くろがね工業は倒産後、かつてのライバル日産のエンジン下請けメーカーとして再出発します。
1970年には日産の100%子会社「日産工機」となり、日産向け自動車/産業用エンジンや、その他自動車部品メーカーとなりました。
かつてのライバル傘下がよほど肌に合ったのか、その後は倒産せず今でも現存しています。
次回は、オオタと同じように戦時中の停滞と、戦後の不幸な出来事で消滅したかつての米国の名門、パッカードを紹介します。

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